神様が〝いる〟と思ったことはありますか?それは、どんなときでした

神様が〝いる〟と思ったことはありますか?それは、どんなときでしたか? 私は、神様を直接見たり、神様の声を直接聞いたり、神様に直接触れたりしたことはありませんが、こんな「存在」があるなら、きっとその背後には神様が〝いる〟のだろうなという経験をしたことがあります。そのことで、この「存在」は神様が成り変わったもので、そのご意志を人間に伝えるために、この「存在」として、ここに来てくれたのだな、ということを知ったのでした。この「存在」とは、一匹の「猫」でした。人間から虐待を受け瀕死の状態から救い出された一匹の「猫」だったのです。
その「猫」は、〝りん〟と言います。その名は、私がつけました。最初に保護されたときの名は違っていました。保護活動家の女性が、虐待によって大怪我を負わされた〝りん〟を病院に運び、大手術の末、奇跡的に命を取り留めることができました。〝りん〟は体力的なものも順調に回復し、「虐待を受けていながら人間への敵意を持っていない子」だったので、里親を探せるようになりました。そして、私が、その里親になりました。
うちに来てくれてからも、〝りん〟は、とても愛想の良い、健気で、かわいい子でした。ご飯もよく食べてくれ、先住猫ともトラブルを起こさず平穏な日々が2ケ月ほど続きました。しかし、異変は、すでに〝りん〟の中で確実に進行していたようです。娘からの訴えで、夜中に一時的な呼吸困難に陥ること、妻からの報告で、血の混じった液体を吐くことがあること、それらが発覚したのでした。
病院で診てもらったところ、「猫喘息」と「重度の口内炎」であることが分かりました。しかも、血液検査の結果=γグロブリンの数値に異常があり、免疫力低下によって引き起こされる口内炎は、一生治らないだろうと言われました。免疫力低下の原因は不明で、過去に受けた「大手術の後遺症」なのか、他に何かが潜んでいるのかも分かりません。
本格的な治療が開始され、ステロイド等の効果で、喘息の激しい発作はなくなり、抗生物質(コンベニア)の投与で、口内炎にも一定の効果がありました。健康状態も良好に推移し、体重も徐々に増えていきました。しかし、それも一ヶ月ほどのことだったのです。「口腔内手術」を行った直後から、容態が急変したのでした。
歯を10本抜かれ、口腔内の炎症を広範にレーザーで焼かれた〝りん〟は、経鼻管をつけられエリザベスを嵌められた痛々しい状態でした。術後は、鼻からの流動食、口からもウェットを少量は食べていました。体重の減少がはじまりました・・・・。術後6日目の深夜に突然、呼吸困難に。病院に駆け込み処置を受け呼吸は安定したものの、容態は思わしくなく、数日前までの元気だった〝りん〟の面影が、まったく無くなってしまいました。険しい表情で、じっと蹲り苦痛に耐えている〝りん〟。毎日、大量の嘔吐をしていました。背中をさすってやると、背骨のゴツゴツした感触がダイレクトに伝わってきます。体重は、ついに3キロを切ってしまいました。
それから、12日間、〝りん〟は頑張りました。
私が、〝りん〟の中に神様を意識したのは、亡くなる1日前の、ある出来事によってでした。早朝のことです。キッチンに立つ私のほうを、それまで、疲弊し切った表情で闘病していた〝りん〟が、まるで完全回復したかのような力強い目で見上げていたのです。キッチンの横の廊下に、ちょこんと座りご飯をねだるときの、いつもの〝りん〟がそこに居ました。
今、思えば、あれは、私に最後の別れを告げに来ていたのでしょうか。自分は大丈夫だから心配しないで、と最後の力を振り絞り私に言いに来てくれたのでしょうか・・・・・。
〝りん〟は、素晴らしい猫でした。あんな虐待を受けていながら人間を信じていました。猫があまり好きではない私の母にも愛想を振りまき、かわいい猫やね、と言ってもらえるぐらい人間を恐れず、親しくなろうとしていました。ついに力及ばず、助けてやれなかった私に対して、最後に〝ありがとう〟という思いを伝えてくれた子でした。
そこには、人間が忘れてはならない、神様しか伝えることができない意識があるように思えたのです。
神様が〝いる〟と思ったことはありますか?それは、どんなときでしたか?
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◆半信半疑ですが・・・
非常に事細か
常に治ろう、治そう、よい状態を保とうとしている
体の仕組みを知ったときです。
体は基本的には物凄くよくできているそうです。
人体は小宇宙。
誰でも体に100人の名医を持っているともいわれます。
◆宇宙空間で地球が自転したり
公転したりしていることを考えると
あまりにも神秘的で
神様はいるなあと思います
◆ないです。
ちょっと冷静なことを言います。
例えば、あるベンチを指定して、そこに誰かが座ってカレーを食べ、指定した部分にカレーが跳ねるか調べよう。
このように検証して、それが起きた場合は奇跡と思えるかもしれませんが、見方をかえ、それが日常での出来事なら他愛のないただの失敗です。
どんなにすごいことや、神様の仕業としか思えない奇跡が起きたところで、それは極短い人間の生命の目線から見た浅い結果論で、まぁ珍しいよね、あまり見ないよね、という出来事にすぎません。
人身売買が行われ、幼いうちに奴隷になる子が今こうしている間に世界にたくさんいます。
その人たちを神様はどうすることもありません。
始末をつけるのは必ず人間です。
その事実を無視して、その人たちは運がないよね、私はお利口だから奇跡が起きた、神様のおかげだ!なんて僕は到底思えません。
あなたを攻めているわけじゃないです。
そう信じることで幸せなら良いんです。
けど、冷静に考えれば「いる」と思うとそれ以上にいろいろ矛盾を僕は感じます。
◆この世は物質と精神で構成されています。もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。
熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。
物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。
そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。
一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。
質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?
ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。
それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。
神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。
また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。
確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。
精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。
単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。
正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。
しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。
しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。
宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。 この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。
「神の存在」について、私のホームページに纏めました。是非ご参照下さい。
◆自分が何も、しなくとも、思わずとも、ただ居て座っているだけで、世界は在り、物事は動く。
何もする必要もない。
何も思う必要もない。
それでも全ては辻褄が合っている。
全てが起こっている。
その事実こそ、紛れもない神兆。
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